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夏至マントラリトリート2/帰ってきてからの、自分のこと

山梨の夏至マントラリトリートからいつものところに帰ってきて、

あぁー 私はいつもとっても護られていて、とってもとっても愛されていたのだなと思った。

今までも有り難さを感じていたけれど、もっともっとそれを実感したのでした。
 
京都での暮らしの中で、最近は、ずーっと外側に纏わり付いていたものが剥がれ落ちてきたような感じがしていた。
 
先生とのセッションの中でも言葉が出るようになってきたりしていた。
 
本当に安心できる人と環境が身近に溢れていたからだったんだなって思った。
 
 
 
 
日々を重ねていくと、散歩していて景色が変わっていくのと同じように、自然と新しい環境に出会う。
 
新しい人が現れる。
 
「いつもの人」や「いつもの景色」と思っているものも変化したり、目に見えなくなっていったりする。
 
心地のいいところ、ずっとそこにいたいと思っても、この勝手に働いている体や心のあらゆる機能が止まらない限り、ぴったり一点にとどまることは不可能だ。
 
そうして移ろって新しい環境に身を置いた時、そこで触れ合うのがどんなに美しい人やものであったとしても、重たい防具を装備してしまうような自分がいることが、このリトリートで分かった。
 
いつもの場所では、いつの間にか自分のことを抑え付けずに過ごせるようになってきていたけれど、それは私全体のただのひとつの側面だったということ。





私ははじめリトリート中に起きた、言葉が出なくなったり震えたりしたことに悲しくなった。

だけど帰ってきてふと気付く。

この旅自体が悲しく、もう体験したくない思い出にはなっていないということに。

多分以前の私なら、もっと気を落として、動くのが怖くなっていたかも。

今回はむしろ、またひとつ自分のことを知れて良かったなと思っていて、こういうことも含め、いろんなことをただ重ねていきたいなと感じられたのだった。

それは自分がここしばらくで少し自身のことを認められるようになったことと、何より行動をともにした先生やみんながほんとにほんとにあたたかな人たちにだったから。





いろんなことが起き、いろんなものが湧く。

それはお天気のようなもので、自然なこと。

雨が降った時、喜ぶ人がいる。

雨が降ると困る人もいる。

でもだからといって絶対に雨を降らせないようにする術はなくて、何かやるとすればてるてる坊主をぶら下げてお祈りをすることくらい。

あとは降ってしまったら、傘をさしたり、雨降りでも出来ることをやったり、雨音を聴きながらのんびり過ごしたり、いっそ開き直って打たれてみたり。

そのまま受け止めてそこからみんなそれぞれの選択をする。

雨も、喜ぶことも、困ることも、お祈りをすることも、みんながさまざまな選択をすることも、さらにその選択によって起こることも、どれが正解でどれが不正解ってことはない。





お天気のように日々いろんなことがあって、
「誰かにとって都合がいいこと悪いこと」というのはあったとしても、起こること自体はいいも悪いもない。

出来事に対して反射的に湧くいろんな感情・感覚にもいい悪いはない。

それでその後に自分が無意識に、もしくは意識的にする選択、そしてその選択によって起こることにもやっぱりどれが正しいということはないけれども、それが苦しいものかそうでないものかというのはある。

思い通りに事が進まない時、もしそれに対して例えばいつも「悲しむ」という選択しか出来ないとしたら、生きにくいだろうと思う。

感情はお天気と一緒、自然のものだけど、自分にとってそれが苦しいほどのものなら、きっと工夫をするといい。

その工夫とは、悲しみという感情を消そう、自然に勝ろうとする大変な努力ではなくて。

雨の日に傘をさしたり、雨降りでも出来ることをやったり、雨音を聴きながらのんびり過ごしたり、いっそ開き直って打たれてみたりするようなこと。

ちょっと決めごとを外せば、いろんな選択肢が見えてきて、思っていたより自由だということに気付く。

はじめのうちは、今まで選ばなかったことを選ぶのに勇気が必要だったりもする。

やってみると、結構悪くなくて、やってみて良かったなーということの方が多い。

書いていて思ったけれど、これは私がこの数ヶ月、先生やまわりの人たちに手伝ってもらいながら経験してきたことだ。





私はどんどん外に出ていきたいとは思っていないけれど、真ん中に素直に反応しながら暮らしていると、こうして知らない場所に行くことになったりする。

お馴染みの場所だってどんどん変化して、目に見える世界はずっと変わり続けていく。

それでも、時や場所が変わっていく中で変わらないことは。

国や組織の都合によって誰かが決めたルールはあったとしても、本来はみんな全然縛られていないということ。

よくそのことを忘れて、縛られているような気がしてしまうし、これだけが正解というものがほとんど存在しないというのに、自分や誰かの決め事にお利口さんになってしまうけれど、私はそれをやめたい。

どこにいても、その時起こることや湧いてくるものに寄り添っていたい。

収縮させず、風通しよく、大きな自然の巡りと一緒にいたいと思う。




大げさな感じになった気がするけれど、やろうとしていることはそんなに派手で大それたことじゃない。

そのまんまでいたいなってこと。

言葉は難しい。

繊細で誤解も生まれやすくて、大切に扱いたいから、出なかったり震えたりするのかもしれないな。



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帰ってから書いた文章やクラスでの話、いろんな想いをそのまんま話したら、なぜかいろんな人が「ありがとう」とメッセージを下さった。

本当に、どんなことが起こってもいいんだなって思えました。

こちらの方こそ、感謝しています。