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どんな音を響かせたいか

2012.9〜2016.5

私は、自分を信じたい、起こることすべてを信頼したい、と思っていたけれど、本当は別に何も信じたくないのかもしれない。

はじめ、なんか寂しいなと思ったけれど、信じないことは別に疑うことや嫌うことではないなと思った。

じゃあ「何も信じていない」ってどんな感じだろうって聴いてみたら、

「何かへの不安も何かへの期待もないこと」

というのが浮かび上がってきて、それってとってもリラックスしている状態じゃないかと、今まで自分の中で繋がることのなかった言葉たちが繋がって、しばし不思議な気持ちになる。

(時折不安で足がすくみ、期待で力んでいる私を振り返りながら)不安や期待がなくてとてもリラックス出来たら、それって一番動きやすくて表現に制限がなくなるんじゃないかと思った。

それは、自分やあらゆることを信じるということの向こう側に見ていた世界だ。

じゃあ結局「何も信じない」は「全部を信じる」と同じ?



一昨日こんなことを書いたら、生徒さんから「あのブログ全然意味が分からなかった」と言われて、そこでもう一度思ったこと話したりしていて気付いたこと。


 

 

不安も期待もないというのは確かに落ち着いているかもしれないけれど、それなら自ら何か行動を起こしていこうとするかなって思った。

心は縛られていないけど、その自由を使って表現をしていこうとは思わないのかもしれない。

そうしたらやっぱり私は、別に何も信じたくないのかもっていうのは違うなと思った。

生まれる感覚、熱量が全然違う。

まず私には不安や期待や、やりたいことがあるし、好きなものがあるし、好きな人たちがいる。

その時点でもうそれがないかのようには生きられない。

そういうのもひっくるめて、とってもとっても「全部を信頼したい」「大丈夫と信じたい」と思っている。

そこから、自分や他人や環境と関わるという行動が起きている。

行動を起こせば当然いろんな反応が起きて、時にそれは大変だったり面倒だったりすることもあるのだけど、それは全部自分が望んで経験しているんだなと自覚した。

あと、「信じてる」って言いたいとも思った。

その方が、嬉しい。






今どんな音を響かせていて、これからどんな音を響かせて生きていたいか、本当によく感じること。

そして実際、そのようにしてみること。

こっち!という歩みたい方向がありながら、2歩3歩と進むにつれて足踏みや後戻りをしようとする自分が出てくるのを、このところよく感じる。

本当はそうしたくないことを、自分で必要であるかのように選んでいる。

マントラ練習の時、

「思い込みの声に騙されない、それにパワーを与えているのは自分」

というようなことを先生が言っていたのを思い出した。

そうだなと思う。