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2016.11.3〜6 ヨーガスートラ∞タントラリトリート

ヨーガの音
  • 思い出したこと 

    今回のリトリートのはじめになんとなく浮かんできた「思い出す」という言葉。
    何か思い出すどころか途中で「全然分からない」という感覚に陥ったりしたけれど、探すのをいったんやめて、3日目の散歩のとき落ち葉の上に寝転びながら、目に映るものをそのまま言葉にしてみていた。
    そうしたらひとつ思い出したことがあった。

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    重なり つながり 交わり

    そういうものを感じるのが好きだということ。
    いろんな形の葉っぱが重なって、その層の向こう側に空や太陽がある。
    重なっている。支え合っている。
    違うものが合わさって出来るひとつの風景がすごく綺麗だなと思う。
    違うものが合わさって別々感が消えていくことに幸せを感じる。
    人の言葉を聴くとき、表情を見るとき、触れるとき、その向こう側も感じようとしている自分がいる。
    それぞれの命が芽生えてからこれまで、無数の色を重ねてきていること、
    またそんな命たちが交わること、そこに美しさを感じる。

    あぁ、そういうことをずっと昔からよく感じていた、好きだった、というかすごくすごく求めていたということを思い出した。
    そしたらそのあと、ひとつの問いが浮かんできたんだった。

    「それで?」

    そこから先があるのを感じている。
    私が与えてもらったこの体、感覚、経験。
    それを通して、私はどう歩いていくのかな。

    「ひとつのことをじっくり感じて大事にするところがいい」
    「ゆっくりなのはいいところ」
    リトリート中に何度となくみんなが言ってくれたけれど、それが救いにはなっても嬉しいと思えなかったのは、時にそれがただの足踏みだということを自覚していたからかもしれない。

    与えられた環境のなかで、与えられたものを使って、私には何が出来るか考えて、動いてみること。
    少し前からちょっとやってみている。

    喜んでもらえたり、
    うまくいかなかったり、
    踏み出せず足踏みのままになっていることもたくさんある。

    「怖がらずに表現してみて」
    今回のリトリートでもそれ以外のところでも、最近何度となくもらうメッセージ。
    そうしてみよう、と改めて。




  • 過去も移ろっていくということ

    20歳を過ぎて「大人」と言われる時代がやってきて、私は子供の頃に経験出来なかったことはもう一生取り戻せない気がしていた。
    やってしまったことはもうどうすることも出来ない気がしていた。
    失くしたものは失くしたまま、汚れたものは汚れたまま、もう過ぎてしまったのだからどうしようもないと思っていたし、
    これから新たに自分が生み出していくものにも、昔のシミや穴みたいなものが広がっていくような気がして怖かった。
    だけど、シミや穴と感じているものすらも可愛がってくれるあたたかい大きな家族が出来てから、自分自身の問題だと思っていたものとの接し方も変わっていった。

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    表面的には31歳の私。
    だけど、いつの時代の私もこの中にいるから、今の私が経験していることは、子供の頃の私も同じように経験しているのだと思う。
    子供の私が少しずつ安心して癒されていく。
    笑顔じゃないいろんな表情も、どんな声色も、怖がらずに(怖くても)見られるようになってきて、そうしたら、全部の表現の中に、
    「愛している」「愛してほしい」が入っていることを感じられるようになっていった。

    それは笑顔や抱きしめてもらうだけでは気付けなかったこと。
    感覚や表現に違いを持つみんながいて、そのどれをも受け止めていろんな形で愛を表現してくれるふたりがいるおかげで、さまざまな形の中にひとつのものを見出すことができるようになっていく。
    疑いがない、という感覚が戻ってくる。

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    そしてその感覚で昔の出来事を観てみたとき、どれもがただの闇ではなくなった。
    どんな体験もギフトになった。
    過去も変わるんだなと思った。

    自分がやってしまったことを美化するわけではないけれど、過ちを犯したと感じていたことも、責めて傷を深めるのではなくて、自分や誰かの足もとを照らす道具として使うことが出来ることを知った。
    どうせならそんなふうに使いたいとすごく思う。

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    今を大切に重ねると、今の私も子供の私も喜んで、子供の自分がいきいきすると、歩きやすくなると思う。
    安心の中でいろんなことを体験し感じながら生きることが出来る。
    そして、自分以外の誰かが今感じている闇にも、その人のこれからにも、光を見ることが出来るなぁと思う。

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  • 暮らし、一緒に生きるということ

    最後の日、弱っていたブルーベリーの苗を日の当たる場所に植え替えた。
    栄養をあげて、お水をあげて、土に触れながらお祈りをした。
    向こうでは水仙の球根を植えていた。
    そっちは肥料をあげたらいけないと言っていた。
    どっちにしても、お祈りまでしたらもうあとは生きる力を信じるだけ。

    私もここで同じようにしてもらっているなと思った。

    生きるヒントも生かすヒントも日常の中にさりげなく、いっぱいある。
    暮らしがどれほど大切かを思い知る。
    人間だけじゃない、自分以外の生き物との関わりを丁寧に重ねていくと、そこにたくさんの学び、いきいき生きるための栄養が十分にある。
    そういうことを毎回いろんな形で教えてもらっている。

 

 

 

  • 違うものと同じもの

    暮らしの中には違うものと同じもので満ちている。
    違いに触れることでひとつが分かる。
    ひとつになろうとすることで、違いを生かしたり尊重したり出来る。

    違うものと同じものはいつも一緒にある。
    自由 と 決められた道 もたぶん、一緒にある。

     


***** 

 

 

 

一緒にいるだけでいつも本当にたくさん大切なことに出逢わせてくれる大好きなみんな。
ひとりひとりの存在も、そこから溢れるどんな表情も言葉も宝物だなといつも感じる。
帰り道は毎回京都のみんなも思い出して、同じように想う。
みんなのこと、
「なにその感覚!いいなぁ、、!」って気持ちが湧くことがたくさんあるのだけど、いつかこまよさんが言った「比べたりするのはいいことだと思うんだよね」という言葉が、最近すごくよく分かる気がします。

帰り際になおさんが、
「おばあちゃんになってもずっと続くんだよ」
ってニコニコしながら言っていた。
ノアで出逢ったみんなも京都で出逢ったみんなも、おじいちゃんおばあちゃんになっても、話したり踊ったりマントラ唱えたり散歩したりごはん食べたりお風呂入ったり眠ったりすると思ったら、嬉しいね。

今回一緒に過ごしたみんな、本当にありがとう!


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