光を観る

法然院のホームページに載っている住職の法話の中に、観光について書かれたものがあって、それがおもしろかった。

「観光」という言葉は、中国の五経のうちのひとつ「易経」に出てくる「観国之光」という言葉が語源になっているのだそうです。

国の光を観る。

他国の文化などをよく観察して深く知るということ。

それがいつしか、「知る」ことから「見る」ことへと言葉の持つ意味が変化してきているというお話でした。





これを読んだ数日後に先生が、
「二元性をもってものを見ることは、世界の半分しか知らないということになる」
と仰って、ぱーっと繋がった感じがした。

観光の意味を「見る」とした場合、その対象は大抵きれいなものだったり好きなものだったり、自分にとって心地のいいものになると思う 。

でもそれだけだと世界の半分、そして自分も半分。

あとの半分(反対の部分・背景・本質)も受け入れて知っていくことは
、世界が広がって自分についても理解が深まって、そうなると心地いいところだけ歩いていきたいと考えているうちはなくなることのなかった都合の悪い部分が減って(というか上手く対処出来るようになって)いって、最終的には楽したがっていた時よりずっと心地よく過ごせるようになる。

「光を観る」というのはすごくぴったりな表現だなぁ。





なんでもそうだけど、何か目標に向かって本当に進んでいくにはお気に入りばかり選っていくわけにはいかない。

でも乗り越えたことは絶対宝物になる。

私のヨガライフでの宝物のひとつに体の硬さがあります。

思うように動かない部分がよく分かるし、見た目じゃないと思っていても落ち込んでしまう気持ちも分かる、必ず体は変化していくので何の心配もいらないことを実体験をもとにお話出来る。

先生になって1ヶ月半。

レッスンや先生のアシスタントをさせて頂く中で、不甲斐なさを感じたり、向き合っていくべきところが見えてきたりしていますが、そういうところも含めた今の全部を味わっていこうと思う。

そしてずっとお世話になっている先生が仰っていた意外に忘れてしまいがちなこと、
「自分が飽きないように、楽しめるように工夫をする」
そうだなぁー、大事だほんとに!





いいタイミングで素敵な言葉をたくさんもらった一週間でした◎