「サハナヴァヴァトゥ/ともに歩んでいくことについて おはなししよう」
違いがあるから悩むこと、違いがあるからいいなって思えること、同じなんだなって感じられること。
みんなでお話をした。
言葉にすることで、はっと気付くことがあったり、
言葉にすることで、はっと気付くことがあったり、
言葉にならない想いも、誰かが言葉にしてくれて整理出来たり、
難しく捉えていることを、とってもシンプルに表現してくれる人がいて楽になったり、
違う角度から見ることが出来ることを、人の話を聴く中で発見したり。
そういったことが、みんなそれぞれの中で起こっていたように思う。
「心地いい時間だった」
「楽しかった」
「マントラをもっと唱えてみたい」
「日常に生かせそうなことがおはなしの中で感じられて良かった」
「心地いい時間だった」
「楽しかった」
「マントラをもっと唱えてみたい」
「日常に生かせそうなことがおはなしの中で感じられて良かった」
そんな言葉をたくさん頂いて。
経験させてもらったこと、大好きな生徒さんたちとあたたかい時間を過ごせたこと、新しい出逢いがあったこと、
本当に嬉しかったし、とっても素敵な時間でした。
また、それ以外にもいろいろと感じたことがあって。
終わった瞬間から視界に霧がかかって、ひどい頭痛、そして熱が出ました。
結局そこから3日間頭痛は消えず、今も少しぼんやりしています。
ワークショップをやってみて思ったのは、私は「ほっとする」というところに長くとどまっていたんだなぁということ。
心地よさや癒やしを感じて頂けるのってとっても嬉しいし自分も癒やされるし、まーるくて柔らかな表現が出来ることは、自分でもっと素敵だって認めていいのだと思う。
そう、「ほっとしたい、ほっとしてもらいたい」は、私の確かな想いではあるのだけど、それを一番に願っているのではなかった、ということに今回はっきりと気付いた。
ほっと出来る人・場所・時間というのは、道を歩く助けになるものなんだよなって。
ちょっと前のブログに、
「気休めにしかならないこともいっぱいやったらいいと思う。」
と書いた。
気休めは助けになる。
だけど気は本来、休めておくものじゃなくて巡るものなんだろう。
それは体の内も外も関係なく全体を巡る。
それは体の内も外も関係なく全体を巡る。
個人の頭の都合でその流れをとめることは、私だけじゃない全体の流れを滞らせてしまうことになるんじゃないかって思った。
きっと私たちは、ここに休みに生まれて来たんじゃない。
自分が願ってきた ほっとできる場所 というものが、ワークショップという形として目の前に現れた時に、私の中で滞らせているものの存在を強く感じさせられた。
ふわふわさせたまんまじゃなくて、本当は動き出したくなっていること、ちゃんと巡らせたいと思っていることをしっかり感じた。
でもその自分から湧いてくるもの全部を表現することが怖い気持ちがある。
そんなの全然大丈夫なんだと感じるようにもなってきている。
狭間って、きついなぁと思う。
きっと私たちは、ここに休みに生まれて来たんじゃない。
自分が願ってきた ほっとできる場所 というものが、ワークショップという形として目の前に現れた時に、私の中で滞らせているものの存在を強く感じさせられた。
ふわふわさせたまんまじゃなくて、本当は動き出したくなっていること、ちゃんと巡らせたいと思っていることをしっかり感じた。
でもその自分から湧いてくるもの全部を表現することが怖い気持ちがある。
そんなの全然大丈夫なんだと感じるようにもなってきている。
狭間って、きついなぁと思う。
人生が私に教えてくれたのは、頭で夢見る全ての事柄をあきらめて、ハートに刻まれた道に従った時に初めて無限の可能性と広大な自由に出逢える、ということだ。「決められている道をあらがうことなく生きることこそが自由」だから広大な海につながる全ての川は、決められている道を自由に流れて行く。
自分を出していくことが個人的なものだと思うと気が引けたり、人の意見も気になったりするけど、出していくことは個人を越えたものなんだって意識を持つと出しやすいのかも。
先生のブログに書いてあったことと、セッションの中での言葉。
胸に寄り添わせておきたい言葉。
大きなつながりや巡りと、個人。
せまいせまい、自分で作ったまぼろしの枠を取っ払っていくようなこと、自分の中をしっかり巡らせてぴかぴかすること。
大きなものを信頼すること。
胸に寄り添わせておきたい言葉。
大きなつながりや巡りと、個人。
せまいせまい、自分で作ったまぼろしの枠を取っ払っていくようなこと、自分の中をしっかり巡らせてぴかぴかすること。
大きなものを信頼すること。
そういうことが、意識の中にポンと送り込まれてきた2月のはじまりでした。