先生から学ぶ中で、本当にそのまんまあるものを観ていくということに取り組むようになって、女性としての自分をいいなって思えることも増えてきた。
片方を見ることはもう片方も見ることになるというのは、分かっているようで、見ないようにしていることが結構あって、
自分の男性性についても観てみるといいんじゃないかと言われて、やっといま感じたり記憶を辿ったりしている。
自分ひとりだったら放置していたんじゃないかなと思う。
感じたのは、そもそもまずどっちがというより、性というものからの逃避の願望があったんじゃないかなということ。
依存や執着に疲れて、もう全部から逃れたかったんじゃないか。
ヨガって中性的というか、どちらでもない世界にいられるように感じていた気がする。
男性女性という感覚を忘れてやれて、自分が何者という次元にいないようなシャヴァーサナの時間。
女性や男性という意識から離れられることが気持ち良かったのかもしれない。
女性としての自分に自信がなかった。
だからって男性のようになりたいわけでもなかった。
だからって男性のようになりたいわけでもなかった。
どっちにも居場所がないように思えた。
そう考えるとヨガも、それまでやってきたことと同じで、現実からの逃避から始まっていたのかもしれないなぁと、今初めて思った。
今は手を繋ぐためのツールになっているけれど。
自分の中の女と男も、体としての女と男も。
性を捨てたいような、だけど嫌いで捨てたかったわけじゃなく、本当はすごく求めていた。
これはもう頭でどうこう出来るところじゃない部分で、きっと求めるようになっている。
あるものをないことには出来ない。
すべての現われのもと - ヨガのこと 日々のこと たまにねこ
なんだか印象深くて、だからと言って自分なりの想いも特に書けなかったから、公開せず自分のメモとしてのこしていた記事。
文章の引用と、こういう感じ?と思って描いた図。
今観ていることと繋がっているように思うし、やっぱり読んでいてなんとなく目に止まったところは、何かしらのサインをくれているんだろうなぁ。