確かなものと不確かなもの

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昨日、先生たちのリトリートから京都に戻ってきました。
今から記すことは走り書きという感じで、どばっと出るままに書くので、きっと分かりやすくはないし、あとからなにか移ろうかもしれないけれど、残しておきます。
 


ほとんどのことが不確かだと思う。
信じたいことも、信じていることも。
だからそのほとんどの不確かなものを不確かだとちゃんと認識をするほど、揺るぎないものが際立ってくるなぁと感じる。
 
 
 
写真は、ふたりの先生に見てもらっている嬉し楽しそうなわたし、の図。
悩むとき、気づくとき、悲しんでいるとき、喜びのとき、どんなときも。
先生たちは出逢ってから3年ちょっと(まだ3年なんだなぁ)、ずっと照らし続けてくれている存在です。
「これからも、どんなことがあっても向き合う」
「ずっと感謝の気持ちを忘れない」
なんて言葉はそれこそ本当にそうなるか分からないことかもしれないけれど、それを承知の上であえて、いまそう思っている・決めているという事実を尊重してその言葉を選びたい。
わたしが、起こることや出逢う人たちのさまざまな違いの中にひとつのものを見出せるように。
(「決意」や「誓い」って、かたいイメージを持たれやすいけれど、愛から自然発生する、むしろかたかったところにすーっと戻ってきた風と光の通り道のようなものだと、今思った。)
 
 
 
わたしたちは確かなものをとても不確かで終わりあるもので包み、生きている。
そんなわたしたちをまた、確かなものが包んでくれている。
確かなものと確かなものの合間にあるこのたくさんの不確かなものに触れ続けることを止めないでいたいと思う。
 
 
 
確かなものは「その向こう側にあって、いつか触れられるもの」ではなくて、不確かなことの間に間に、中に外にいつでもある。
不確かなものに触れているとき、確かなものが同時にそこにある。
出来るだけ、それに気付ける状態でいたい。
そのために必要なものを養いたいし、戻るところへ戻りたいと思う。