言葉と頭と心と揺るぎないもの

自分の日々の選択がどうもよく分からなくなって、

「これはこうだと思ってやっていたけど本当はこっちなのかな」

とか、ここ最近のいろいろな選択についてぐるぐるしていた。


ぐるぐるした末とりあえず分かったことは、ひとつひとつをどこかに当てはめようとどうだこうだ、どうだったこうだったということに頭を使うことは、体も心も消耗するということだった。

ぐるぐるするのはいつだって頭で、心はぐるぐるしてないなぁと思った。

心は結構シンプルに、痛みとか悲しみとか虚しさとか気持ち悪さをただ次々に表現してくれているだけだった。

ぐるぐるをとりあえずそのままに、私が愛しているものや人のことを想った。





私は、自分を信じたい、起こることすべてを信頼したい、と思っていたけれど、本当は別に何も信じたくないのかもしれない。

はじめ、なんか寂しいなと思ったけれど、信じないことは別に疑うことや嫌うことではないなと思った。

じゃあ「何も信じていない」ってどんな感じだろうって聴いてみたら、

「何かへの不安も何かへの期待もないこと」

というのが浮かび上がってきて、それってとってもリラックスしている状態じゃないかと、今まで自分の中で繋がることのなかった言葉たちが繋がって、しばし不思議な気持ちになる。

(時折不安で足がすくみ、期待で力んでいる私を振り返りながら)不安や期待がなくてとてもリラックス出来たら、それって一番動きやすくて表現に制限がなくなるんじゃないかと思った。

それは、自分やあらゆることを信じるということの向こう側に見ていた世界だ。

じゃあ結局「何も信じない」は「全部を信じる」と同じ?





そうやってまた言葉遊びが始まりかけてふと、少し前によく思っていたことを思い出した。

みんな、いきいきするために生まれてきている、ということ。

こないだ親指がざっくり切れてしまって。

怪我をしたその瞬間から元に戻るために必要なことを体は勝手に始めていた。

その様子に「生きたいんだよな」と思った。

老いていくし、いつか死ぬけれど、死ぬその瞬間まで生きるから、やっぱり基本、いきいきしようとして生まれてくるんだきっと。

当たり前で大切なこと、忘れやすい。

迷っている時は、何か大切なことを忘れている時なのだろう。

「あれ、どっちなんだろう?」ってぐるぐるしていたことも、「いきいきすること」を祝福するようなことなのかそうじゃないことなのか、そこを真ん中にしてみたら見えやすいなと思った。






そうして選ぶ道というのは、言葉や視覚的には「甘い」かもしれないし「厳しい」かもしれない。

「信じる」かもしれないし「信じない」かもしれない。

だから、言葉や目に見えるところで、どこかに決めようとすると難しくなるんだな。

本当のことを観ていたい、本当の音を聴いていたい。