すべての現われのもと

一体、人間は何を主張しようとするのか、一言に言えば「我ここに在り」というのである。いろいろの言い回しはあるが、その端的は「オギャー」である。何故そんなことにワザワザ大声をあげるのかといえば、それは男であり女であるからに他ならぬ。すべての主張はその意味では性に連なると言えよう。
要求の第一は食べることである、動くことである、その身を保とうとすることである。何故食べたいのか、生きていたいからである。しかし何故生きていたいのかは判らない。生きていたいから生きていたい、というより他ない。ただ裡(うら、うち)にある生の欲求によって、食べたくなり、飲みたくなり、動きたくなり、眠たくなる。その要求によって、一個の精子が万物を凝集して人体を作ったのであるから、いわば体構造以前の問題であろう。
それ故、主張も、要求も含めて要求といえる。一は個体存続の要求であり、一はいつまでも生きていたい要求の現われとしての種族保存の願いに他ならない。ここに人間の一切の動きのもとがある。人間に限らず、動物の動くのは体の動く前に動くものが裡に生じ、裡の動きの現われとして体が動くのである。それ故、動くことのすべては要求の現われに他ならぬ。一切の体の動きの背後に構造以前の要求がある。

物理学者的感受性も生物学者的感受性も、また闘争的行動も雷族的冒険も、要すれば昇華方向の相違といえる。
何故相違するのか、この相違こそ体構造差をもたらしたものに他ならない。これによって行動が現われ、形を為すのであり、大脳昇華、行動昇華、本能的流出の濃淡に体運動の動き特性があり、体癖素質があるのである。

 

体癖 (ちくま文庫) P44〜46  より。



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